仏教の中でも禅の教えの真髄は「今、ここに存在する」ということだと思います。そのように説かれている禅師の方も多くいれば、私もそう思います。現実の世界は「今、ここ」にしかありません。それ以外(過去、未来、ここではないどこか)は頭で作り上げた幻の世界です。にもかかわらず、ほとんどの場合、「今、ここ」にいることができません。私もそうでした。何をするにしてもその場にいないのです。過去を思ったり、未来を思ったり、今日の夜遊びに行くところにいたり、過去のどこかに行ったりします。その状態で今ここでやるべきことをするのですから、質は高まりません。心ここにあらずですから、心が入ったものができることはありません。仕事にしても、料理にしても、会話にしても。
自分が「今、ここ」を大切にすると、「今、ここ」にいない人がよくわかるようになります。あ、この人は自分と一緒にいるのに違うところに心が行ってしまっているな、とすぐにわかります。しかしほとんどの人がそれが当たり前になってしまっているのです。
現代のせわしない社会に生活している私たちは、心から何かに打ち込むという経験が少なくなっているのではないでしょうか?テレビを見ているときや、ネットをしているとき、ゲームをしているときなど、集中していると思うかもしれません。しかしそれはその世界に同化しているだけで、「自分が今ここにいる」というとても質の高い時間とは全く違うものになってしまっているのです。
私は長年このようなことを勉強していました。ヨガもずいぶんやりました。禅も勉強しました。「今、ここ」という唯一の現実の存在もずいぶん前に出会いました。しかし、常にそこにいることなど到底できませんでした。
数年前に大きな病気をしたとき、本当にこれで死んでしまうと心底思いました。最後に行きついたのは、本来悩みなど何もないということでした。生きていることがすべての幸せであり、今思っている悩みなど本来はないものであるという心境になりました。病気の最中は、死にたくないという思いと死んでしまいたいという思いの戦いが続きました。そしてどうしても生きたいと思った時から力が湧いてきて回復が始まったのです。その時、生まれて来たときの感動が蘇りました。私たちは誰でも心から望んでこの世界に生まれて来たのです。それは長い道のりを経て、どうしても生まれたいという強い気持ちを結集させて、ようやく生まれて来たのが今の人生、今生なのです。ある宗教では来世のために今生は犠牲にし、よい生まれ変わりのみを心の支えにするという教えがあります。私はその前に今生を大切に生きるべきだと思います。
「犠牲にすることこそ大切」と言われるかもしれません。しかし、今生に生まれてきたという感動を忘れてしまって、来世ばかり意識を向けていては天寿をまっとうすることなどできません。この世に生まれて来た自分の目的を見つけ、大切に生きて、今ここにあるという真理に行きつくことほど素晴らしいことはないのではないでしょうか。どんな状況であろうと生きているだけで幸せだと思える自分になれたのは感謝しかありません。
私の場合はあれほどの経験をしなくてはわからなかったのですが、本当に追いつめられなくても「今、ここ」がわかる人が増えて来ているのです。
私は絵を描くことが大好きです。時間があるときはずっと絵を描いています。主に油絵です。描いているときに「今、ここ」にいることができます。絵を描くことがあまりにも好きなので「今、ここ」以外無くなるのです。電話が鳴ろうが誰かが来ようが気づかないことがしょっちゅうあります。
当治療院に来られた方にマッサージのような手技療法を受けていただくことがあります。このとき私が「今、ここ」にいられるかどうかがとても重要なのです。「今、ここ」にいるとき、大きな気の流れの中にいて、自分も同時に癒されます。いや、自分も癒されないと相手も癒されないのです。気功ではないのですが、気を流す療法を行います。気を流す導き手である私の状態が実はたいへん大事です。私は気の治療を20代の頃から始めましたが、当初は呼吸法や体を調えることで気が流せると思っていました。しかし、「今、ここ」にあることができていないと気は流れません。流れたとしても少しだけです。「今、ここ」にいられるためには潜在意識が掃除されなくてはいけません。潜在意識のゴミがどうしても邪魔をしてくるからです。私は病気を通して随分修行をさせていただきました。
何かをしたあと、私は自分に問いかけます「今にあることができていたか」と。