気というのはよく使われる言葉です。気なんて信じないと言われるかたもいるかもしれません。しかし、どの道であっても一流と言われる方は少なからず気というものを理解し、駆使しているものなのです。
例えばスポーツにおいて、一流のプレーヤーが気持ちによって、自分のプレーをある程度コントロールしている時、その気持ちが気ということになると思います。料理にしても、気持ちをこめて食材を最大限に生かして、最高の技術を出そうとすることで、絶対においしいという確信を持って料理をしている時、そこに気をかんじることができます。この場合も気が入っておいしいという事実があるのです。気持ちの違いで質が変わるというのはある程度普通に理解されていることです。
例えば雑念が多く集中力が足りない人が何かを作り上げても質が伴わないということは当たり前のことです。
では、集中イコール気でしょうか、気持ちを込めることイコール気でしょうか、私はそれも気の一部であると理解しています。
気はどこまでも大きく尽きることはないし、質は無限段階で高まります。それを可能にするのに、気持ちを込めること、集中することだけでは足りません。力みは気を止めます。エゴも気を止めます。または質を悪くさせます。
私が気を使ったマッサージを謳っているのは、わずかでありながらも気というものを理解することができたからです。それをすべて説明することはできないのですが、「今、ここ」に在るということと、祈りについて書きたいと思います。
「今、ここ」というのは、自分のいる場所になります。誰でも今いるところは今、ここであるはずです。過去や未来にはいくことはできませんし、ここではないどこかに行くことはできません。しかし、意識の中では過去や未来、ここではないどこかへ行くことができます。例えば今、ここが自宅のリビングであったとします。しかし、意識の中では過去のどこかや、未来のどこかに行くことができます。それはよいことなのか、悪いことなのか、ほとんどの人は考えたこともないかと思います。
「今、ここ」に在るということは、自宅のリビングにいるということです。実はそれ以外は真実ではないのです。過去に行きたいから過去を思う。未来を思う必要があるから未来を思う、と言うかもしれません。確かに少しはそれも必要かもしれません。しかし、ほとんどの人が本来在るべき「今、ここ」をおざなりにし、過去や未来、ここではないどこかに常に思いを巡らし、いわゆる地に足のついていない状態、心ここにあらず、という状態に慣れてしまっているのです。これでは気を高めることはできません。気というのはエネルギーです。それは量でもあり質でもあるのです。例えば、優れた芸術作品を生み出す過程において、必ず「今、ここ」に在るという意識が存在し、それによって芸術が生み出されていくという事実があるのです。ですから、自分が芸術作品を創作した時に、どれだけ「今、ここ」に在れたか、を問うことがそのまま質を問うことにつながるのです。
例えば食事についてですが、食事の最中に「今、ここ」ではないどこかにいると、食事の味がわからなくなってしまいます。食事を作ってくれた方に対しての感謝や気持ちも表すことができなくなります。その結果、あまり質の良い食事の時間は過ごせなくなり、体にとってもよい結果は現れません。多少、体に良くないと思われる料理であってもこの気持ちの問題で良くも悪くもすることができるのです。
今、ここに在るためには、そのための修行が実は必要です。人間は実は「今、ここ」に在ろうとしても、実はすぐに違うところに行ってしまう習性が身についているのです。ですから、例えば仏教においての修行であったり、ヨガの修行であったり、その他の修行であっても、わかっている方は「今、ここ」に在ることが最大の修行であると知って、日々修行をされているのです。私にとってはマッサージをしている時、絵を描いている時、書道をしている時など、特に「今、ここ」を意識し、修行としているのです。
祈りというのは実は気そのものなのです。この世の中には実は祈りを日々の習慣として過ごしている人々が実は多く存在しているのです。その中で、真剣に祈ることを実践している方々はみんな知っています。祈りはネルギーであることを。祈りはどんなことに対してもすることができます。ほとんどの場合、それは自分や自分の家族、会社、仲間などに向けられたものであるかと思います。何かのプロジェクトが成功してほしいと願う祈りも、実は自分に対しての祈りであることが多いのです。
これは自然の法則なのですが、自分に向けられた祈りは大きなエネルギーに届くことはなく、自分にエネルギーとして返ってくることはないのです。自分の幸せを願うエネルギーは大きなエネルギーにアクセスするキーを持ち合わせていないので、ある程度のエネルギーとして消えてしまいます。しかし、強い目的を持っている人など、自分のエネルギーが充実している人が何度も念じるように祈り続けた場合、自分のためであってもそれは水滴が岩をくだくように大きな力として働くことが可能です。しかし、そのために与えられた自らの生命力(寿命)の無駄使いということになり、場合によっては早死にすることにつながるのです。
例えば、人に対しての恨みなども祈りの一種だとしたら、大きなエネルギーにアクセスできないばかりか、人に対してのマイナスの感情は必ず自分を痛めてしまうようになっています。それによってガンなどの病気を引き起こすのです。
自分のために祈ることを通り越して、他人のために祈ることこそ、祈りのパワーを最大限に発揮することができるのです。自分のためでない祈りは大きなエネルギーへのアクセスキーを持っています。大きなエネルギーというのは、自然そのものです。そのエネルギーにアクセスできるとそのエネルギーは癒しや心を動かすパワーとして働きだすのです。
アメリカでは祈りの癒しに関する効果の研究が進んでいて、祈りによる治癒効果を認めるような医者や科学者が急激に増えてきています。例えば病気である人の健康や癒しを何人かのグループが祈る実験を行ったところ、確実な治癒効果を認める結果が出てきているのです。
そして素晴らしいところは自分のために祈った祈りではなく、誰かの健康や幸せ、民族の平和、自然環境の平安などを祈った祈りは確実にその効果を発揮するだけでなく、周り廻って自分によいエネルギーとして返ってくるのです。これはやり続けることでわかります。自分の健康や幸せ、成功でさえも実ってくることが実感できるのです。
どうしてそうなるのかと言えば、自然の摂理がそうしているとしか言えないのです。人を恨んだり、貶めたり、自然環境に悪いことをすれば、必ず自分に返ってきます。それは簡単に言えば運命を悪くしていくことになるのです。
このようなことを意識して祈りを呼吸法のように行っていると、気というものを感じられるようになります。その気は人や自分をも癒し、芸術性を高め、人の心を動かす力を持っています。私は10代のころからこのようなことに非常な興味を覚え、いろんなところを訪ね歩きましたが、大きな病気を経て、少しずつそのことがわかるようになってきたのです。